年長者、老人という存在は映画の中において特別な役割を与えられることが多い。たとえば全知全能とまでは言わないがモノを知った存在として他の登場人物たちを助ける役割だったり、価値観が古めかしく若い人を攻撃する絶対的な悪者としての役割だったり、病気などで圧倒的弱者としての役割だったり、全部が全部そうというわけではないが、明確な役割が与えられていることが多い。
物語においては特に違和感がないものの、自分の周りにいる老人たちがそうかというと全然そんなことはなく、めちゃくちゃ雑な言い方をすれば普通の人が圧倒的に多い。全知全能のように賢いわけでもなく、めちゃくちゃ嫌なやつというわけでもなく、病気になれば弱るということは程度の差はあれど概ね若者も同じである。
本作の老人たちは、とにかく老人らしい老人だった。公園で持ち寄ったツマミを食べつつ酒を飲む姿は、特に春先の公園でよく見る光景だ。全員が役所の福祉課の女性と顔見知りなのには、さすがに笑ってしまったが、まあ世話になるのだろう。ツマミに伸ばした手が、思いのほか軽くなってた缶に当たってしまい倒れそうになった瞬間、缶を受け止めようとはせず少し手を引っ込める仕草に見覚えがありすぎる。
公園の老人の一人、寺田は年長者らしい助言を七海や雅人にしない。家に泊まらせてくれと言われれば困り、泊まらせたところで自分の生活ペースを崩さない。そのペースに雅人がぴったり合わせて生活するものだから、寺田は「こんなんで良いの?」と雅人に問う。いつもはこうじゃないけど、ここでは退屈じゃないよと雅人は返事をする。そういえば自分も子どもの頃、祖父母と過ごすゆったりとした時間が好きだったなと思い出す。普段なら退屈でたまらなくなるようなスローペースが、なぜだが祖父母となら心地が良かった。
雅人が床に転がったとき、同じように寺田も転がるが、何か含蓄のあることを言うわけでもなく、普段やっているであろう腰の体操を突然はじめ、七海と雅人も同じ動きをしだす。脈略もなく何かを言ったりはじめたりする老人多いよな・・・とわりと年長者と接する機会が多い自分は思う。
ただ、長く生きてきた蓄積みたいなものはきちんとあって、船でコックをしていた経験を生かしてオムライスを振る舞う。最近流行りのふわふわしたオムライスではなく、かたい卵に包まれたオムライスなのが良い。それを七海や雅人は美味しいと食べるが、じゃあ作り方を教えて欲しいとはならない。
そして誰かを探しに行き、きっちりと道に迷う。少し背が丸まっていて、よたよたと心許なく歩く姿は、まさに老人だった。別に旅先で誰かと恋に落ちるわけでもなく、気が付けば戻ってきて七海と公園のベンチに座っていた。イーストウッドあたりなら、中年(といっても自分よりうんと若い)女性と恋に落ちて家に帰らなかったと思う。
別にこの映画は老人が老人らしいだけではない。子どもも子どもらしかったのではないだろうか。中学生・高校生くらいの子どもは、等身大の自分よりちょっと背伸びした姿を見せようとし、自分は全部わかっているような口を利きがちだ。七海も寺田に知ったような口を何度もきく。自分は他人がなに考えてるかわかると言い、寺田が考えていることを続けて言う。寺田は本当にわかるんだーと驚く。
ただ、七海が他人の気持ちを読むのは冒頭の寺田相手だけだ。母が恋をしていることも知らなかったし、雅人に対しても何も言わなかった。そして、寺田に対しても冒頭だけだった。
七海が人の気持ちがわからなくなったと最後言うが、それはまさに成長の証なのだろう。全てをわかった気になっているときより、わからないことがあると知った時の方が、人は大人になれる。多くの人と関わり、自分の想像の範疇を超えるものと出会うことで、七海は成長したのだ。それは別に特別な成長ではない。ごくごくありふれた、普遍的な成長だ。しかし、とても大事な成長ではないだろうか。
普遍的はものをありのまま映す心地よさ、美しさ、それが優しく描かれた作品だった。
中学2年生の七海は母親と2人暮らし。七海という名前をつけてくれた父親は、ずっと前にどこかに行ってしまった。そんな七海は今日も学校に行かず、川べりで夫を亡くしたばかりという岬という女性と知り合い、心を通わせる。
一方、若い頃に妻を亡くした77歳の元船乗りの寺田は、老年にさしかかったことで不安を感じることが増え、老人たちが集まって屋外で飲み食いする「憩いのベンチ」に参加するようになっていた。
原案・脚本・監督 福間健二 | プロデューサー 福間惠子 | 製作 tough mama | 配給・宣伝 ブライトホース・フィルム | 関西宣伝 松村厚
リアクション
Gbri田Ciou$太郎
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