いつだってそうでなければならないと思っている。じぶんの身体を実験の行われる場として、さまざまな試行を受け入れる受容体として機能させること。しかしわたしたちは日々提供される無数の実践や作品を仔細に検討することなく生きることができてしまう。とりわけわたしはじぶんの怠惰さを反省することなく、ソファーで横になりながらSNSを見続けてしまうことができる。わたしの気分にぴったりの投稿や動画を求めてスマホの画面をひたすらスクロールしても、そんなものが見つかるはずはなく、結局はそのうちすべてを諦めて立ち上がるしかない。
立ち上がって洗面台に向かい、手を洗いうがいをする。鏡でじぶんの顔を見る。日によって太っているように見えたり痩せているように見えたりする。あるいは体重計に乗り、体重の増減に嬉しくなったり悲しくなったりする。じぶんの健康や肥瘦に気をつかう、きわめて衛生的な身体だ。しかしわたしたちはどうして健康に生きていかなければならないのだろう。
コロナの流行によって奨励されるようになった手洗いうがいも、もとをただせばコロナ禍のずっと以前から、それも小学生のころから教育として教えこまれたものだ。公衆衛生の名のもとに、教育の一環で健康が診断され、歯磨きを習慣化し、みずからの健康を管理するように命令された衛生的な身体が形成されている。
しかしそうした、なかば自動化した衛生的な身体と同時に、酒やたばこを好む身体があることも事実なのだ。そうした、ある意味で不恰好な身体を、つまり酒を好むいっぽうで、筋トレですこしでもへこんだお腹を手に入れようと苦心するわたしのようなちぐはぐな身体を、衛生的ではなく、かといって不衛生なのでもない、「非衛生的」な身体として受け入れる必要がある。
この文章、そして今後の文章は、衛生的なもろもろの環境の視察と、それに抗する非衛生的な諸実践を立ち上げるためのリサーチの集積になるだろう。そうして方々から持ち寄られ取材されたものからなる営巣の試みは、レンタカー業者の倉庫に巣をつくるツバメのように、あらかじめひとによってつくられた人工物を土台にする。わたしたちの能力には限界があり、またいちいちの部分にぴったりとはまる素材などないという諦めは、わたしたちの営巣の試みにかかる負担を軽くもするだろう。
その軽さは、わたしたちの、必ずしも文章を書かなければ生きていけないわけではないこの生へとバウンドしながら、しかし書くことを選択することにおいて、書くことにともなう構えの解除と、間違いや思い込みから出発する発想を材として捨てないことを可能にする。それゆえこの文章、そして今後の文章は「やむにやまれぬ」わけではない生活と執筆の(非)密着を裏面として持つ。その密着を剥がすような日々のエクササイズやストレッチといった延々と繰り返される準備の果てに、文章を書くように筋トレやストレッチをするような、並行する営生があるのかもしれない。この文章が「肩甲骨剥がし」というストレッチから着想を得ているような並行性。
あまりにも理念的にすぎる文章の終わりに、今後の思考の当座の課題を具体的に記載する。大正生命主義(岡田式静坐法)の検討。公衆衛生の名目のもとに行われることもあるホームレスの排除(ジェントリフィケーション)とナチスの公衆衛生政策の関係。気候変動のもとで保護されない人間の生(と保護される芸術作品)。しかしなんであれ、わたしたちの生を立てることに関係しないものなどあるのだろうか。
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