Text by:三上耕作
隠したい背中としての、労働で疲弊した生活と、表に出すかぎり整えられた表現とが、背と腹のように連続していること。ーーー専門性のことばのみでいいのなら、映画や芸術は、そこだけで生きる人たちのものだけになってしまいます。ーーー人間は複雑な生き物です。一過性のある人間なんて、この世にいないと思っています。背と腹では別の顔をしているでしょう。でも、別に切り離す必要なんてない。表に出すものは体裁を整えようとするけど、だからって自分の本質を捻じ曲げる必要はないのです。
背 に 腹の構想が持ち上がったのはホン・サンスの『小説家の映画』という作品について話している場においてでした。その、ホン・サンスがいちから方法を試行しているような、素人主義的にもみえる慎ましさを、わたしたちは好ましく思ったのでした。必要から生まれた、しかし即興的なのではない、消化不良の思考の厳格さとでもいったものを、わたしたちがこれから文章を書いていくための方法として採用できるのではないかと、そのような態度で試行する場が必要なのだという思いを持ちました。
なによりも、わたしたちの生活の設計のために文章を書くことが必要で、わたしたちはそのための場を必要としているということの自覚がありました。必要の自覚が強いる生活の見直しと、いっぽうで日々の雑事に疲弊している身体の、そのどちらをも倒れることなく立てるために、『小説家の映画』のような態度が参考になると思われたのです。つまり、歩行や飲食や睡眠といった日常性を切断することによって芸術が実現すると考えるのではなく、やめられない酒やタバコのような卑近な現実との連続のうちに芸術はあるのだと。
隠したい背中としての、労働で疲弊した生活と、表に出すかぎり整えられた表現とが、背と腹のように連続していること。そうしたことを認めたうえで書かれる文章がわたしたちには必要で、同じような身体を抱えているかぎりで同じような境遇にいるひとたちにも必要であるかもしれないと無根拠に信じて、わたしたちは文章を書きます。
生活の実践のことばへ / Text by:Gabri田Ciou$太郎
いわゆる批評文、評論の書き手に実際に会ってみると、拍子抜けしてしまうことがあります。テキストからは堂々と、強く、ときに鋭いものであっても、実際に会ってみるとなんだかほっとしてしまう柔らかさや、人間らしさ、日常や生活を感じるというか。あのテキストと実際から受ける印象のギャップというものは何なのでしょう?
わたしの感覚として、芸術にまつわることばが、どんどん生活の感覚と離れていってしまっている、もともと近かったかどうかわからないのですが、そんな感覚を持ってしまうことが多々ありました。芸術は芸術、生活は生活と、厳格に切り離してしまったことで、どんどん芸術のことばは格式高く、生活から離れていき、専門性を帯びていく。
もちろん専門性の議論というものは芸術において必要なことでしょう。しかしそのことばは必ず、生活に落としていく必要があると、わたしは思っています。なぜなら芸術を受け取るのは、ほかならぬ生活をする人々だからです。専門性のことばのみでいいのなら、映画や芸術は、そこだけで生きる人たちのものだけになってしまいます。
はたして芸術とはいかなるものでしょう。虚業、単なる余暇でしょうか。わたしにとっても同じく、それは「背/と/腹」でした。いや、それは、そうであるもの、というより、そうしていく、そうでなければいけないという意思に近いです。そう持念していないと「背/と/腹」は離れていき、想像もできないほどグロテスクなものになってしまいます。
誰かの犠牲の上で表現が成立してしまうことを容認してしまうのは、その営みが日常や生活から離れていってしまっているから、とわたしは強く思います。「それ」は別の世界ではないと認め、わたしたちは、どこかに置いてきた生活のことばをたぐりよせなければいけない。少なくともわたしはそうしていこうと思います。
労働と芸術 / ステイトメント Text by:小林和貴
2年ほど会社員をしていたことがありました。めちゃくちゃ激務で文字通り朝から晩まで働き、土日は何をしていたのか全く覚えていません。映画も本も演劇も音楽さえも聴かなくなっていて、大好きなバンドのファンクラブは知らぬ間に期限切れになっていました。
ある日、演劇を観に誘われました。どこで何を見たのか全く覚えていないのですが、終演後に楽しそうに感想を言い合ったり内容について議論する知人たちを眺めながら、全く感想も言葉も何も浮かばぬ自分に失望したことだけは強く覚えています。なぜ、なにも言葉が出ないのか、面白かった、つまらなかった、それさえもわからない、全く心が動かなかった、ただそれだけが残っていました。それは見た演劇のせいではなく、あきらかに僕自身の問題でした。ただそれだけはわかり、自分に失望し、泣きながら家へ帰りました。
労働と芸術は相性の悪いものだと思っています。労働に時間を割かれれば割かれるほど、芸術に割く時間はなくなり興味も薄くなりがちです。多くの人にとって労働は生きていく上で必要なものですが、芸術は必要最低限のものではありませんからね。
そして芸術に心を強く揺さぶられると、疲れた心身は耐えられなかったりします。労働で疲れているのに、さらに疲れることはしたくありません。
芸術も労働に勤しむものに優しくない場面が多々あります。知識のないものを意図的に排除したり、知識マウントを取ってきたり。ぽろっと言った映画の感想に対して、批判(もはや悪口だったかもしれませんが)を小一時間されたことがあります。映画観るのめんどくせーという気持ちしか残りませんでした。
労働に勤しみつつ、芸術を諦めたくない。そう思った時、芸術はあまりにも労働を疎かにし下に見る態度を取ってくる。そうなると、なんだかもう手放したくなります。実際に僕も何年か手放しましたが、ちょっとやっぱり悔しくて、今は労働に勤しみながら芸術にもしがみついてやろうと思ってます。そういう人は案外たくさんいると思っていて、そういう人たちと手を取りたいし、別に誰だって良いのですが、もう少しお互い優しくありたいなと思います。
きっとどうしたって僕の書くものからは労働が滲み出てしまうだろうけど、それをあえて排除する必要はないと思っています。人間は複雑な生き物です。一過性のある人間なんて、この世にいないと思っています。背と腹では別の顔をしているでしょう。でも、別に切り離す必要なんてない。表に出すものは体裁を整えようとするけど、だからって自分の本質を捻じ曲げる必要はないのです。
労働に忙殺されながらも、芸術を愛し、それについて語るとき、日々の生活と芸術は切り離す必要がないと感じるものが生まれるのではないのだろうか、僕はそう思っています。
リアクション
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